「こんにちは」
「やあ、奥さん。お疲れサンデー」
「写真俳句論、ですか」
「さうなんですよ」
「写真俳句には反対してゐる人がゐるつて聞きましたけど」
「ま、たしかに反対といふか懐疑的な人はゐますね」
「どういふ問題点があるんですか」
「懐疑的な人たちは大体次のやうに主張してゐるんでせうね。<例へば絵画の展覧会で音楽を流してゐるところがある。絵画を見るのに音楽を流されたらうるさいだけでなく、絵画のイメージが固定されてしまひ、拡がりがなくなる> つまり、例へば印象派の絵を見てゐる時にクラシック音楽を流されたら迷惑だ。私の頭の中にはシャンソンが流れてゐて欲しいのに、のやうなことです」
「ええ」
「写真俳句に置き換へると、ここに松尾芭蕉の句があつたとして、勝手にそれに写真をつけられたら俳句読者の句からイメージを拡げる楽しみが奪はれてしまふ、といふことになりますね」
「一理ありさうですね」
「さうですね。しかしこんなことを言ひ出したら何も出来ませんよ。小説を映画化する時も、<小説を読んでゐた時のイメージと違ひすぎる。どうしてくれるのよ>となつちやう」
「ええ」
「句の鑑賞もろくに出来ません。<ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋>といふ句について<一本の桜の木があつて…>と鑑賞文を書いたら<私の解釈によればこの句の桜の木は無数に並んでゐなければならない。ヘンなイメージを植ゑつけないでよ>と言はれてしまふ。これぢやお手上げです」
「ええ」
「そんなわけですから、写真俳句とかフォト五七五とかは雑音に構はず自由にやつていいと思ひますよ」
「写真俳句つてのは具体的にはどう作るんですか」
「作り方としては、俳句先行型、写真先行型、同時型などがあると思ひます。まづ俳句先行型について説明しませう。
このやうな句があります。さあ、どんな写真をつければよいでせうか」
「あれ、難しい。一つ目は菜の花畠の写真、二つ目は美男美女の写真…。三つ目はどうすればいいんでせう」
「分かりやすく言ひ切つてしまふと、方法は二つあります。句のイメージ通りの写真を持つてくるか、あるいは句から離れたイメージの写真を持つてくるか、です」

「句のイメージ通りの写真を持つてきた例です」
「これは分かりやすくていいですね」
「さうでせう? 気持ちよくて悪くはない。しかし、これではわざわざ写真俳句をする意味がないやうな気がするのも事実です」
「さうですか?」
「つまらない。<仕掛け>のやうなものが欲しい。まあしかし、このやうに全体を一つのテーマで貫き通したものは俳句業界では<一物仕立て>と言つて、充分に<アリ>なんですけどね」
「はい」

「これはどうでせうか。句とは直接関係ない写真をぶつけてみました」
「あらあ、かういふのも成立するんですね」
「さうですよ。これは俳句の世界では<取り合はせ>と言ふんですがね、一見関係ない、しかし微妙に繋がつてゐるものを持つてくるんです。この場合は句自体が<春隣>と<大韓民国美男美女>の取り合はせになつてゐて、さらに俳句と写真が取り合はせ、という構造ですね」
「全体的に能天気な感じがして、いいですね」

「これはどうでせう。ちよつと粘着性が過ぎますか?」
「んん。これは元々俳句を見た段階で既に重苦しい感じがしてゐたので、ちよつとパスかも」
「これは好き嫌いがあるかもしれませんね。まあしかし、俳句に写真をあてる場合はあまり俳句に遠慮するのはよくないと思ひます。俳句をもりたてるために写真をつけるんぢやなくて、写真は写真で自己主張してゐるものを持つてきた方がいい。それによつて、俳句がまた力を得たりすると思ひます」
「写真先行型、同時型はどうなるんですか」
「これはよく分かりませんね。私の場合は大体俳句先行型で作つてゐるので。ああさうだ。前出の菜の花畠のは実は同時型でした。同時型は要するに旅行先などで俳句も作つた、写真も撮つた、といふことで、大抵は一物仕立てになるんでせうね」
「さうですか」
「さうだ奥さん。写真俳句の意外なメリットつてご存知ですか」
「さあ」
「縦書き処理ですよ。コンピュータ上で俳句を縦書き処理するのは割とややこしい面があるんですが、俳句を写真に入れ込んでしまへばOKなんです。文字化けなどの心配もありません」
「さうですか」
「あとはアレですね」
「アレとは?」
「写真をつけると親しみやすくなつて一般の韓国人も俳句の世界に入つて来やすくなる点があると思ひます。さういう意味で、在韓日本人は写真俳句を少し嗜んでおくのがいいかもです」
[2008-02]