「こんにちは」
「やあ、奥さん。ごぶサタデー」
「『文藝春秋』を読まれてたんですね」
「さうなんですけどね。これあ一寸違ふんぢやないかと思つて」
「難しい顔なさつてましたね。『俳句で日本語を究める − 林望』ですか」
「ええ。これによるとですね、俳句は次のやうに作られると言つてゐるんです。<ほんのちよつとした季節の推移などを観察する。→その場でメモをする。→あとでそのメモを見ながら『もつとも適切な表現』を求めて、考へる。→推敲に推敲を重ねて『あ、これだ』といふ句の姿に辿り着く>つてことです。何が『あ、これだ』なんだか…」
「これは間違つてゐるんですか」
「一寸いらつとするんですよね。まづ次の句を見てください。
二階より地のひるがおを吹く友や 安井浩司
この句の作られ方は決して上の様な過程は踏んでゐないと思ひます」
「ぢや、どんな風に作られたんですか」
「それは分かりませんけどね、少なくともこの句は何か感動するものを見て、それを俳句にしたといふ類のものではないと思ふんですよ。我々がこの句を見て何故か分からないけど感動するといふのが重要であつて、作者の見た風景が感動的なものだつたかとか、作者は何に感動したのかとかはあまり関係がない」
「はあ」
「ゴッホの『ひまはり』のことを考へてください。ゴッホがひまはりを見て感動したかどうかとか、ひまはりの何を伝へたかつたのかとか、ぢやないんだ。我々が『ひまはり』の絵を見て感動できるかどうかなんですよ」
「まあ、仰りたいことは大体分かりました」
「林望の言つてゐる文では、俳句をまるで<感動したことを伝へるためのツール>のやうに捉へてゐるんですよね。それぢやつまらないでせう」
「でも、先ほどの<ひるがお>の句は兎も角ですよ、
道端の木槿は馬に喰はれけり 松尾芭蕉
この句は自分が受けた感動を伝へてゐるんぢやないでせうか。むしろ<ひるがお>の句は少数派で、この芭蕉の句のやうなものが一般的ぢやないんですか」
「そこだ、奥さん。僕がさつきの俳句制作過程を全面否定できなかつたのは、そこなんですよ。この制作過程若しくはこの説明の仕方は間違ひぢやないんだな。ただし、古いんです。20世紀の説明スタイルですね」
「ええ」
「そもそもこの林望の文はシニアに俳句入門を勧める文なんだ。そこでわざわざ旧態依然とした方法論を紹介しますか。それよりも、ネット時代にふさはしいことを書いておくべきでせう。例へば『俳句はインターネットと相性がいい。添削サービス・検索機能などを大いに利用すべし』『作つた句は速やかにネットに載せて、自分が作つた証拠として残しておくべし』のやうにね」
「ええ」
「最近、坪内稔典の講演を聴く機会があつたんですが、<言葉を色や音のやうに使ふ愉しみを試みてゐる>と言つてゐましたよ。俳句を感動を伝へる道具のやうに考へたら非常につまらない、などともね。ま、かうしてみるとどうやら、僕は林望の文を読んで坪内稔典の講演内容を思ひ出した、坪内稔典の受け売りをしてゐる、つてことになりさうです」
「さうですか」
「しかし、この文春の記事で最も厄介なのは最後の部分の『文学は身近なところに鎮まつていて、あなたが発見するのを待つてゐるかもしれない』といふ部分でせうね。『金鉱脈が埋蔵されてゐるとしても、掘らずしてそれを得ることは不可能である』と。それあ確かに理屈ではさうだけど、歳とつてから俳句始めて文学的な何かを得るなんて可能性は限りなくゼロに近いでせう。20代の頃に「俳句をとるか人生をとるか」で俳句をとつたやうな人でさへ俳句を作ることによつて得ることが保証されてゐるものなんて何もないんですよ。朝から夜まで俳句の事だけ考へて暮らしてゐる人が何十万人もゐるやうな国で、始めて数年で文学発見云々とか、笑つちやう話です」
「今回のタイトルのWeb2.0といふのは何ですか」
「ああ、これは取り合はせですね」
「と言ひますと?」
「Web2.0と俳句といふ、一見なんの関係もないものを持つてくるテクニックですよ」
「Web2.0とは?」
「簡単に言ひますと、数年前までのインターネットでは情報提供者が一方的に情報伝達するスタイルでしたが、最近ではそれが様変はりし、Webページにある色々なサービスをユーザが主体的に利用する形になつてゐるわけですね。さういふものをWeb2.0と呼んでゐるやうですよ」
「ええつと…」
「僕が漠然と思つてゐるのは、俳句は鑑賞するものといふ時代は終わつてですね、Web2.0的世界ではユーザがそこに置かれた俳句と戯れるイメージですかね。なので、ユーザが単独または複数で戯れることのできる俳句がいい俳句つてことになりさうです」
本稿作成にあたり、林望「俳句で日本語を究める」(『文藝春秋』2008年1月号 p.320-323)を参考にしました。
[2007-12]