「社会の窓」はなぜ「社会の窓」というのですか。「保健体育の窓」あるいは「理科の窓」という呼称がより相応しいのではないですか。
なぜそう思いますか。
なぜって、「理科の窓」が最適だとは思いませんが、少なくともその窓は「社会」より「理科」や「保健体育」の方が関係が深いものであるはずです。
うーん。まず「窓」とは何かから考える必要がありますね。ちょっとこの文を聞いて質問に答えてみて下さい。「窓から赤い物が見える」。話者は家の中にいますか、外にいますか。
中だと思います。
「うわあ。窓が大きくていいわねえ!」 これはどうですか。
これも家の中にいると思います。
そうでしょう? 「窓」というのは殆どの場合、内部の者の立場で語られるものなんですよ。
ええ。
つまり「社会の窓」と言った場合、それはあくまでも中にある「モノ」の立場から見たものであるわけですね。
はあ。
いいですか。トイレに行ってズボンのチャックを開けることについて、「今日トイレに行った時さあ、社会の窓が開かなくて焦ったよ」と言ったら変でしょう?
変です。
「チャックが開かなくて焦ったよ」と言わなければならない。それはなぜかというと、トイレでチャックを開けるのは生物学に関係したことであって、社会に関係したことではないからです。
ええ。
一方、駅前のベンチに座っている時にチャックが開いていたとしましょう。その時に誰かが「社会の窓が開いてますよ」と指摘するのは変じゃありません。これはつまり、駅前においては、ある閉空間内部にある「モノ」の生物学的な活動のために窓が開いていたということではなくて、その「モノ」が社会への参加を企てていて、それを敏感に感じ取った人が「社会の窓」という表現を使ったからですね。
「社会への参加」とは、例えば猥褻物陳列のようなことですか。
まあ、そういうことですね。
なんとなく分かりましたが、今回の窓の話は韓国とどういう繋がりがあるんですか。
それは私が言わなくても、読者が脳内補完してくれることになっています。ウチのサイトは兎に角読者のレベルが滅茶苦茶高いことで有名ですんで。
[2005-07]